カテゴライズするということ

我々は、実に様々なものをcategoriesに分類し、把握しようとする。たとえば、「left--right」、「liberal--conservative」、「liberalism---realism」などである。今挙げた例は思想・理論・学派に関する分類であるが、これはほぼすべてのものに当てはまる。ある意味では、言語とは物事(事象)を区別・識別する機能をもつものであるといえるだろう。この場合、「言語とはネガティブなもの」という認識と近しい発想だとおもう。___*まぁ、言語はその種類(言語のタイプ?)によっては、(あるいは、ひとによっては言語一般は)ポジティブな定義を行うともいえると思うが、ここでは識別ということを強調したいので、ネガティブなものとして捉えておく。
では、categorizeする意義・意味(ご利益といったほうがわかりやすいか)はどこにあるのだろうか?なぜ我々はcategorizeしたがるのだろうか?Laykoffによれば、categories(著書の中ではRadical Categoriesとしている)は、我々が思想などを認識したときに、その思想のcentral tendenciesやvariationsを説明するのを可能にするものだという。そして、Laykoffのいっていることに私も同意する。なぜ同意するかを論証するのは保留する。(というか今はできない)
で、ここからが本題である。
卒論の根本にある、「思考の射程距離」という発想と、categorizeされている思想について考えることとのつながりはどこにあるのかをできるだけはっきりさせよう。私は以前、「categoriesはあくまでcategoriesであって、ある(個人の)思想の本質を指すものではない。だからこそ、自由主義とか民主主義のような、すでに分類されている思想の本質を見つめようと思ったら、自由主義や民主主義の代表的な人物(もしくは、それらの思想を形作るのに貢献した人物)の著作をよみ、その違いを認識することが重要である」というようなことをいった。これに、laykoffの議論を援用しつけたすとすれば、「categorizeという行為は、あくまでも認識をクリアーにしておくための便宜的なものである。(誰がどんな発想かを分類できないと、木を見て森を見ずになってしまう。)そして、そういった分類によってもたらされる問題は、“〇〇主義って〜〜な感じだろ?そんなのは吟味したり、考慮するに値しないね”とか、“〇〇主義=アレ”といったように、非常に短絡的で、真摯なものではない理解に陥るということである。要するに、我々は物事をcategorizeすることによって、見通しはよくなるが、きれいな景色を見るがために、その物事の本質にかかわるような重要な何かをそぎ落としてしまうということである。だからこそ、〇○主義という伝統を形成してきた人々の実際の言説を緻密に読み込むことが必要であるし、それによって初めて、〇○主義の内実・本質を理解することができたといえるのである。
とまあ勢いで書いてみたけどやっぱどっかで聞いたことあるようなことしか言えないですね。どうも私は汎用性の高い、便利な理論・概念をもとめがちなような気がしてならない。まぁ、良くも悪くもですな。