水素的・経済学的な合理性と、ダールの合理性の違い

水素的にいえば、「合理的でない人間ってのはいない」ということになる。この場合の「合理的である」とはどういうことか。これはダールの合理性と対立するのではないだろうか。
たとえば、黒い人(=No.9)が毎日徒歩で帰るのは、一般人にしてみれば理解できない不合理な行動である。だがこの場合、一見不合理に見える黒い人の行動は彼にとっては合理的な行動である。これはただ、一般人の選好(preference)もしくは効用関数(utility function)と、彼のそれとが異なっているだけである。つまり、一般人にしてみれば、移動手段としての徒歩は、「疲れるし、時間がかかる」ものなのだが、彼にとっての徒歩(彼にしてみれば「徒歩=散歩=楽しみ=趣味」なのかもしれない)は、「楽しいし、楽しい!!!」ことなのである。一般の理解とは異なり、彼にとって徒歩は、どれだけ時間がかかろうと、その機会費用を補償して余りあるほどの効用があるのだ。

・・・この事例は別にどうでもいい。少々くだらない方向にはじめから脱線してしまった。仕切りなおす。
水素的・経済学的な合理性とは、「あるアクター(またはエージェント)は、参照可能な情報をすべて考慮に入れて最適な行動を行おうとする」という意味での合理性である。ここで「参照可能な」といっているのは、人間は全知全能(omnipotent)ではなく、限られた範囲の中でしか物事を知り得ないということである。水素的・ハイエク的認識からすると、このような限界の中で、最大限の努力をすることが合理的であるといっているのである。
これに対し、ダールは昨日の要約文にもあるように、現代政治分析の第11章においてこういっている。「完全合理性は、政治だけではなくどの分野においても、現実には到達不可能なのである。」この場合、「完全合理性」は水素的にいう「全知全能」に対応し、「限定された合理性」は「限界の中での合理的な行動」を意味するといえよう。つまり、ダールの場合、より合理的であるというのは、より全知全能な状況に近いということとも考えられよう。人間には、一定の限界があるから、完全に合理的であるとはいえないのである。しかし、水素的な合理性は、限定された情報しか把握できなかったとしても「最善を尽くそうと努力している。または最適な行動をしようとしている」のであるから、合理的だといえるのだ。
この認識の違いはどこから生まれるのか。ダールの場合、真に合理的であるとは、すべての事象・情報を把握し、最適な行動することである。よって、人間は一般に、すべての事象・情報を把握できないのであるから完全に合理的とはいえない。水素の場合、人間はすべての事象・情報を把握できないというのは前提であり、その前提に基づいて最適な行動をしようとしている以上、そのアクターは合理的なのである。____とまあ長々と書いたが、結局のところ、ただ言葉の使い方が違うだけで、ダールも水素も基本的には同じことを認識している、つまり、表現上は対立してそうだが、本質的にはほぼ同じことを言っているのだとおもう。・・・つまりまあ、駄文だったということですよ、これは。機会費用が…