バーナード・クリック『現代政治学入門』

この本、アマゾンの書評にもあるようにイギリス政治学の教科書となっています。内容は、大学で初めて政治学を学ぶ人を念頭において書かれています。ということで、イギリスの大学のカリキュラムの状況なんかも多少かかれてますが、その辺はスルーしておくことにして、印象に残ったとこだけ記しておこうかと思います。*なお、太字は筆者(=わたくし=ここの世帯主)による。

現代の圧制は、意思決定がなされる理由を隠さなければならない。なぜそれを隠すのかというと、意思決定が特定の集団の利益、通常は政権党の利益のために隠されており、一般的利益のためになされていないという、いたって単純な理由からである。いやしくも「一般的利益」という言葉が意味を持ちうるのは、一般的で開かれたそれなりに自由な意見の交換が存在する場合だけである。
まさしく、自由社会を特徴付けているのは、普通の市民が高い比率で実際に政治に参加しているだけではなく、意思決定がなされた理由に関して公共の知識が存在していることなのだ。(72-73頁)


政治を研究するという活動そのものの中には、政治という概念それ自体の中にと同様に、自由へ向けてのバイアスが組み込まれているのだ。(73頁)


社会理論の見地からいえば、近代的議会は統治機構とか「人民の意志」の代表機関などとみなされるべきではなく、政府と人民の意志を結びつける双方向のコミュニケーション・システムとみなされるべきなのだ。
自由は、政府を批判する権利、批判を実行する能力、および実際に批判を実行している市民にかかっている。「消極的自由」(つまり国家からの自由)は、積極的に遂行されなけらばならないのだ。リンカーンの「自由の代価とは普段の監視である」という偉大な警句でさえ十分ではない。自由の代価はもっと高価なものであって、まさしくそれは市民の不断の活動なのである。(80頁)


自分たちはジャーナリストではなく研究者であり学者なのだから偏見も価値観も持っていない、などという自己欺瞞に陥ってはならない。自分の持つ偏見と価値観とを自覚すればするほど、それだけ私たちは客観的になれるのだ。自己検証をすることと客観的であることは、どちらも、心理的にも道徳的にもきわめて苦痛を強いるものである。(105-106頁)


ってなところですかな。ちなみにこの人(=クリック)はLSEとかでハロルド・ラスキとマイケル・オークショットに学んだそうな。うぉーすげぇ。結構な有名どころですぞ。ちなみにクリック自身は社会民主主義者だと自認してました。保守の大御所に学んだ社会民主主義者…なんだか味なまねをしてますねクリックさん。