篠原一『市民の政治学』岩波新書(新赤版872)の要約

*結構前に読了していましたが、UPすべきか悩んでたので遅くなりました。

  • 前提となる立場と主張

現代は、「第二の近代(自省的近代)」と表現しうる時代である。
そして、この第二の近代においては、政治も過去の形態から変容しつつある。
第二の近代では、「参加デモクラシー+討議デモクラシー」が要請される。

市民社会論は、ロック→スミスへと至る「ロック系列」と、モンテスキュートクヴィルへと至る「モンテスキュー系列」に思想史的には分類される。

アレント:公共圏における政治的活動の重要性を指摘した。
ハーバーマス:新しい市民社会の口火を切る役割を担った。協議倫理など、現在の新しい市民社会論の土台を作ったともいえる。
* コーエン=アレイト:ハーバーマスと近い立場。(アメ人。)

  • 討議デモクラシー

ドライゼクのハーバーマス批判:協議デモクラシーにかわる、討議デモクラシーを主張。
ハーバーマス以降:民主制を二回路制のものとした。

    • 法治国家によって制定された制度的プロセス(例:議会など)⇒ 政策決定の場となる
    • 市民社会内部の、非制度的・非形式的な意見形成のプロセス ⇒ 討議それ自体を指す

討議デモクラシーは、直接民主制を目指すものではない。また、特定の政策の実現を積極的に目指すものでもない。あくまでも、議論(討議)それ自体に価値を認める立場をとるものである。つまり、市民社会における討議によって、民主制の充実に資することを望む立場なのだ。(*私の解釈入ってます。)
えー、ごく簡単にまとめると、この本は、主にヨーロッパの政治思想を使って、討議デモクラシーの(拡充の)必要性を説いたものです。*1

感想と雑感(本の内容からかなり飛躍してます)

自分は自由主義と民主主義のどちらを重視するかについて考えると、私のような一般人は民主主義を支持せざるを得ないな〜、と最近つくづく思います。
語弊はありますが、自由主義は社会全体の青写真を示したものといえるわけです。つまり、社会の根本的な構成原理を示したものであると。*2

で、要するにいいたいのは、「自由主義も、社会についての一種の青写真なのであって、その青写真にうまく適応できなかったり、同意しかねるような人たちは、絶対数としては、かなりの数存在しているし、存在し続けるのではないか」ということです。
しかも、国家(政府)というものは、そういった人たちをも巻き込んで運営せざるを得ない。だから、自由主義古典的自由主義は特に)を厳格に適用しようとすればするほど、その社会でうまく生きていけない人は増える可能性がある(かもしれない)のです。

では、「自由主義者=クソ食らえ!」なのかというと、そうではありません。自由主義は、社会の構成原理としては、基本的には、望ましいものであると思います。しかし、自由主義を絶対視しすぎると、国家の正当性への疑念が高まる危険性があるはずです。で、国家への正当性が揺らいだときに、どうやって国家の政策に対し国民の意見を反映させるのかといえば、それは民主制しかないものといえます。そして、今日の国家制度を前提としたとき、直接民主制を実現するのは、少なくとも国政レベルでは非常に難しい。*3
さらに、私のような金も権力もコネもない一般人にとっては、「発言権(≒投票権)を確保されている」ということが何よりも重要なのです。だって、べつに自由主義は嫌いじゃないけど、明らかにだめな(ナンセンスな)政策を政府が出してきたらいやじゃないですか。*4

とまあ、いろいろ書きましたが、要するに、「自由主義は重要なのは前提として認めるけど、私のような一般人にしてみれば、民主主義がまともに機能してくれることのほうが重要だよね」ということです。

*1:これじゃタイトルのまんまだ

*2:もちろん、自由主義の青写真は積極的に「社会のあるべき姿はこうだ!」という風に決定されるものではありません。あくまでも消極的に、「ここまではみんな譲歩してお互いに暮らしやすいようにしましょうね」というふうに決定されるものです。

*3:憲法改正論議が高まると、憲法9条は何かと話題になりますが、統治に関連する問題はあまり取り上げられません。この状況では、当面は直接民主制へと向けた論議が高まる見込みはないといえるでしょう。

*4:例:愛国心教育←そんなに学級崩壊がひどいんですかね。どう考えても、愛国心教育は、国民を一定の方向に向かわせるための政治的な道具だとしか思えません。われわれは日本人である前に一人の人間なわけで・・・などと人道主義的な雰囲気のことをいってみたりして。いや、つーか、「一人前の人間として生活するのに、愛国心は別に必要条件じゃないだろ」というだけですな。だって、愛国心があっても、モラルがないと困るでしょう。